×

imogarabokuto1250's video: 2

@野路由紀子 うたう小倉百人一首(歌集別区分(古今和歌集(その2 安倍仲麻呂)))
古今和歌集 二十四首 5. 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき   猿丸太夫 7. あまの原ふりさけ見ればかすがなるみ笠の山にいでし月かも     安倍仲麻呂 8. わが庵は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり        喜撰法師 9. 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに       小野小町 11. わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣舟    参議(小野)篁 12. あまつ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ       僧正遍昭 14. みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに    河原左大臣(源融) 15. 君がため春の野にいでて若菜摘むわがころも手に雪は降りつつ       光孝天皇 16. 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいざ帰り来む    中納言(在原)行平 17. ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは     在原業平朝臣 18. すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人目よくらむ     藤原敏行朝臣 21. 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな                      素性法師 22. 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐と言ふらむ                       文屋康秀 23. 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど                    大江千里 24. このたびはぬさも取りあへずたむけ山 もみぢのにしき神のまにまに                菅家(菅原道真) 28. 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば                       源宗干朝臣 29. 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花                       凡河内躬恒 30. 有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし                       壬生忠岑 31. 朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪                    坂上是則 32. 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬもみぢなりけり                 春道列樹 33. ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ                  紀友則 34. たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに                 藤原興風 35. 人はいさ心も知らずふる里は花ぞ昔の香に匂(にほ)ひける                紀貫之 36. 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ               清原深養父 小倉百人一首   歌集別分類 1 古今和歌集 二十四首 2 後撰和歌集    七首 3 拾遺和歌集   十首 4 後拾遺和歌集 十四首 5 金葉和歌集 五首 6 詞花和歌集 五首 7 千載和歌集 十五首 8 新古今和歌集 十四首 9 新勅撰和歌集 四首 10 続後撰和歌集 二首 合計      百首 【古今和歌集とは】 醍醐天皇の詔により撰ばれた最初の勅撰和歌集。略称は《古今集》。20巻。古今とは〈いにしえ〉〈いま〉の歌の集の意と,後世の人々が,和歌が勅撰された延喜の時代をいにしえの和歌の聖代と仰ぎ見るであろう,の意を兼ねる。流布本では巻首に仮名序,巻尾に真名(まな)序を付し,歌数は1100首)。分類は春,夏,秋,冬,賀,離別,羈旅(きりよ),物名,恋,哀傷,雑,雑体(長歌,旋頭歌,誹諧),大歌所御歌とする。 最初の勅撰和歌集。八代集の第一。20巻。延喜5年(905)の醍醐天皇の命により、紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)が撰し、同13年ころ成立。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、仮名序・真名序が添えられている。歌風は、雄健でおおらかな万葉集に比べ、優美・繊細で理知的。 7番 安倍仲麻呂 7. あまの原ふりさけ見ればかすがなるみ笠の山にいでし月かも          安倍仲麻呂 現代訳 大空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。(ああ、本当に恋しいことだなあ) 阿部仲麻呂(あべのなかまろ/698~770年)は大和の国に生まれ、若くして優れた学才を現し、霊亀二年、仲麻呂十六才の時に遣唐使・多治比県守に従って、留学生として唐に渡りました。玄宗に仕え、李白や王維らの著名人と交際し、文名が高かったと伝えられています。  三十年近くの滞在の後、仲麻呂が五十一歳の時、宗皇帝に帰国を願い出て帰路に着きましたが、その途中で嵐にあい安南に辿り着きました。阿部仲麻呂は後に再び長安に帰り、唐の地で亡くなりました。  この和歌もよく知られているもののひとつですが、仲麻呂の帰国を祝って明州の町で宴会が開かれた時に作られた和歌だと伝えられていて、阿部仲麻呂の故郷への思いがとてもよく表現されています。 生年は大宝元年(701)とも。中務大輔船守の子。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡ちょうこうと改めた。晁衡とも書く。百人一首などでは安倍仲麿と書かれる。 霊亀三年(717)、第八次遣唐使の留学生として入唐する。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。同行した吉備真備・玄昉らは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて正三品の高位にまで昇る。李白・王維ら文人と交流し、その詩は清乾隆帝勅撰の『全唐詩』などに収められている。宝亀元年(770)、在唐五十四年、七十三歳にして唐の都長安に骨を埋めた(贈従二品)。勅撰入集は古今集と続後拾遺集に各一首が伝わるが、後者は万葉集の阿部虫麻呂の歌を誤って仲麻呂の歌としたものである。 770年1月、唐の都・長安で周囲の人々に惜しまれながら70年の生涯を閉じた一人の日本人がいた。阿倍仲麻呂である。彼は717年の遣唐使一行に加わり、留学生として16歳で入唐。その秀才を玄宗皇帝に認められ高位の官職に就く。733年派遣の遣唐使一行とともに、在唐中に得た学識を携えて帰国する予定だったが、玄宗はその才を惜しんで許可を与えず、ようやく帰国が許されたのは752年のことだった。  翌年の帰国途中、彼の乗る遣唐使船は海上で嵐に遭い、安南(現在のベトナム)に漂着する。一行のうち170名余りが現地人に虐殺されるという苦難に遭いつつ、約1年半の旅の末ようやく長安に戻ったこの才気溢れる日本の貴人を、玄宗は再び暖かく迎え入れた。仲麻呂はその後、安南節度使などの高位の官職を歴任し、ついに日本に帰ることはなかった。  百人一首にその名を残す詩才豊かな歌人だった仲麻呂は、中国最大の詩人といわれる李白とも親しく交遊した。遭難の報に接し李白が有名な哀傷詩「晁卿衡(ちょうけいこう)を哭(こく)す」を残したほど二人の友情は厚かった。李白もまた西域のトルキスタン生れと伝えられる。故国を離れた異民族同士という関係は二人の心の絆をより強いものにしたのかもしれない。

0

0
imogarabokuto1250
Subscribers
59.6K
Total Post
1.2K
Total Views
71.9K
Avg. Views
1.4K
View Profile
This video was published on 2018-04-07 06:47:05 GMT by @imogarabokuto1250 on Youtube. imogarabokuto1250 has total 59.6K subscribers on Youtube and has a total of 1.2K video.This video has received 0 Likes which are lower than the average likes that imogarabokuto1250 gets . @imogarabokuto1250 receives an average views of 1.4K per video on Youtube.This video has received 0 comments which are lower than the average comments that imogarabokuto1250 gets . Overall the views for this video was lower than the average for the profile.

Other post by @imogarabokuto1250